女性蔑視

オリンピック組織委員会会長の森氏の発言が問題になっています。

 

女性のいる会議は時間がかかる云々です。

 

 

 森氏:「女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。

誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。

結局女性っていうのはそういう、あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、

女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないと

なかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。」

 

 

男女共に納得がいくまで話し合った方が良いという姿勢が森氏には無いようです。

 

会議は納得がいかなくても 手を打って早く終わらせるのが正解だと言っているわけで、

それを妨害する女性には困ったものだと言っているのです。

 

確かに女性は話が長いし ハッキリ物を言う人が多い気がします。

これは女性の特徴であり 男性には理解できない点でもあります。

これは単なる男女の「差」ですから これだけでは女性蔑視の発言とは言えません。

 

 

男性と女性はまるで別の生き物のように感じることがあります。

人間としての尊厳は男女で変わることはありませんが 質に大きな差があります。

身体も脳も違う生物だと分かると 男女の「差」や「区別」が理解できるようになりますが、

それは「差別」や「蔑視」とは違うことも理解できます。

 

それぞれが持つ「差」を見下すことが「差別」であり「蔑視」です。

森氏の発言に見え隠れするのがこの「見下し」であり「上から目線」です。

その匂いがプンプンするのです。

 

 

 

しかし どうでしょうか、女性蔑視は身近な家族から国家まで蔓延しているじゃないですか。

第二次世界大戦後にアメリカが持ち込んだ「人権第一主義」「男女平等」はまだまだ理想論のままです。

私は大学まで進ませてもらいましたが 父は「女を大学まで行かせると ろくなことにならない」と言いました。

のちに家を継がなかったことに対しての期待外れからの発言でした。

昭和に育った国民の 体の中まで浸み込んだ基本的な価値観です。

 

 

社会が早いスピードでグローバルスタンダード化になってしまったために 

男性は(時には女性も) 今までは当たり前の風習として女性蔑視してきた本音を 表に出してはいけないのだと、

事あるごとに自分の中に封じ込めているというのが実情です。

決して脳の中から女性蔑視が消えたわけではありません。

 

封じるスイッチを手に入れた人達は 言葉や態度に出さない方法を手に入れた訳ですが、

封じるスイッチを手に入れる能力の無かった人は このような発言をペロリとしてしまうわけです。

 

 

 

このようなペロリ系の男性で日本は溢れています。

特に年配の男性達です。

私も含めほとんどの女性が悔しい思いや涙を流す経験を重ねてきたと思います。

男女平等、ジェンダーフリーは世代交代が必要なほど時間のかかる理想だと感じています。

 

しかし今回は オリンピックという国際的に大きな機会に世界から非難を受けたことで 

自浄作用の難しいこの問題が白日の下にさらされた事により

国民一人一人の問題として意識が変わるのではないかと期待しています。